もしも詩人・池田克己を題材に小説を書くとしたらと想像し、題名は思いついているのです。
「震源地」
詩を書くだけではなく、編集と装丁デザインもこなした池田克己は、40年という短い生涯のなか、6つもの同人誌・雑誌の創刊に関わっています。
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東京から帰郷し、写真館を開いた吉野町下市で出版した「風池」
- 上林猷夫、日垣又信、宮崎讓、島崎曙海たちの参加していた大阪の同人誌「関西詩人」と合併して創刊した「豚」
- 上海の文学者たちと創刊した「上海文学」
- 草野心平と創刊した中国在住文学者による文学誌「亜細亜」
- 戦後、「豚」メンバーを中心にガリ版刷りで発行した「花」
- 「花」をきっかけに出版した詩誌「日本未来派」
昭和14年から終戦直前まで中国にいた池田克己は、昭和19年に南京で催された第三次大東亜文学者会議に、現地代表として招待され、土方定一、奥野信太郎、佐藤(田村)俊子、内山完造、石上玄一郎、武田泰淳とともに出席しています。そのとき、高見順と知り合い、意気投合しています。
中国滞在中は「大陸新報」社の記者として働きながら、雑誌に携わり、三冊の詩集と一冊の写真集を出版するなど果敢な活動をしていた池田克己は、戦後、「豚」の仲間だった上林猷夫、佐川英三とともにガリ版刷りの同人誌「花」を出版します。
小説家の高見順が初めて詩を発表するなど「花」はガリ版刷りながらも非常にクオリティが高く、豊島与志雄が持ち歩いては朗読するなど評判になりました。
この「花」を読んで感激した上海時代の詩友八森虎太郎と連絡をとりあっているうちに、八森が経営者として新しい詩誌を発行することになり、「花」から、詩誌「日本未来派」が生まれました。
「花」の発行部数は最終刊の第四号で150部でしたが、「日本未来派」を発行するにあたり、池田克己は全国展開を狙い2000部の印刷を決定します。【参考:木田隆文「日本未来派,そして戦後詩の胎動」】
池田克己は、得意の編集技術と装幀技術を奮い、敗戦後の重い世相の中で、自由な表現のステージとなる詩誌「日本未来派」をプロデュースしました。
池田克己編集時代の日本未来派の同人は非常にバラエティに富み、内容の豊かさがうかがえます。
安藤一郎・安西冬衛・和泉克雄・池田克己・乾武俊・内田義廣・植村諦・梅木三郎・内山登美子・江間章子・扇谷義男・小野十三郎・及川均・大瀧清雄・上林猷夫・黒木清次・窪田般弥・小柳透・近藤多賀子・今官一・港野喜代子・小池亮夫・酒井傳六・佐川英三・坂井一郎・佐藤總右・坂本明子・眞田嘉七・島崎蓊助・島崎曙海・杉本春生・須藤善三・相馬好衛・田村昌由・高橋新吉・高橋宗近・高島高・高見順・髙松棟一郎・高田敏子・武村志保子・谷村博武・多田裕計・土橋治重・寺尾道元・富松良夫・永瀬清子・長島三芳・長尾和男・永田東一郎・中室員重・野長瀬正夫・原田種夫・平木二六・平田文也・古川清彦・真壁仁・松本小夜子・前登志晃・宮崎讓・八森虎太郎・和田徹三(日本未来派57号池田克己年譜より:昭和28年1月現在の同人)
また外部からの執筆者も多く参加していました。
加納浩、宮崎譲、黄瀛、松畑優人、逸見猶吉(遺構)、長谷川渣、林房雄、金子光晴、島崎蓊助、加藤雅民、阿部金剛、横光利一、菅原克巳、高松棟一郎、伊藤新吉、百田宗治、鈴見健次郎、小野重吉、高橋宗近、千家元麿、宮沢賢治(遺稿)、岡崎清一郎、森美那子、増田栄一、田村泰治郎、入江元彦、北村謙次郎、内山完造、山本信雄、渕上毛銭、平林敏彦、高山泰子、竹尾大吉、弓削昌三、杉山真澄、真杉盛雄、杉山平一、翕田朱門、北川冬彦、梅木三郎、深尾須磨子、草野心平、鵜沢徹郎、大木一治、鳥見迅彦、小林富司夫、川会主計、宮崎孝政、長谷川竜生、角達也、会津寒吉、会田満雄、右原尨、稲垣足穂、原田種夫、冬木康、柴田元男、牧草造、増田栄一、山之口獏、橋田一夫、坂本遼、金子乾、山本和夫、吉川仁、山本藤枝、西山勇太郎、長谷川巳之吉、正木聖夫、直木淳郎、岩佐東一郎、奥山潤、清水清、飛鳥敬、川上澄生、坂本越郎、長光太、扇谷義男、大上敬義、後藤郁子、吉田稔、岩本修蔵、水野陽美、岡本潤、村野四郎、木原孝一、遠地輝武、岩田潔、桃井忠一、多田裕計、北園克衛、笹沢美明、青山鶏一、江間章子、酒井伝六、ノエル・ヌエット、佐藤三夫、吉村まさとし、藤原定、錦米次郎、鳥居良禅、真田嘉七、井出文雄、大江満雄、更科源蔵、河邨文一郎、三井ふたばこ、天野美律子 (1957年日本未来派詩集序文より、池田克己編集時代の執筆者)
また「日本未来派」は出版社として、金子光晴詩集「落下傘」、高橋新吉詩集「高橋新吉の詩集」高見順詩集「樹木派」など詩集も多く出版しました。そのなかで、池田克己も「法隆寺土塀」「池田克己詩集」「唐山の鳩」の三冊を出版し、高い評価を得ています。
池田克己の編集技術は非常に高く、「日本未来派」は池田克己の雑誌といっていいほど彼の個性によってつくられた雑誌でしたが、彼は詩を発表しながらも、「日本未来派」という雑誌で自分を表現することはありませんでした。
日本未来派は、一個の思想や概念の共通によって、結びつき発生されたものではない。各人それぞれがこの敗戦後の混沌の中に、未来に向ってたどろうとする。愛や誠実の協同による、連帯の場である。このような中から、現代詩の正しい性格の追及などというようなことにも、当然な懸命さが展開されて行くであろう。日本未来派は生々しいムーブマンとしての、切実さの中にある。
池田克己「日本未来派」創刊号編集後記より
「日本未来派」において、詩人の個性は尊重され、池田克己は詩作において方法論を示すことはありませんでした。「日本未来派」は、詩が生まれる場所であり、詩人をバックアップする場所でした。池田克己にとって、「日本未来派」は彼の分身ではなく、彼が夢見た自由の天地でした。
池田克己の死後も「日本未来派」が続き、現代に至るまで出版され続けているのは、「日本未来派」が池田克己そのものではなかったからで、彼の精神を、引き継いだ人々が守り続けたからでした。
池田克己が亡くなって4年後の昭和27年に出版されたアンソロジー詩集「日本未来派詩集」の序文は、池田克己が創刊号後記に書いた精神が変わっていないことが示されています。
『日本未来派』は未だ一度も、いわゆる《宣言》を発表しなかったということは、同人達が、何らの主張も持たなかった、ということを意味しない。雑誌としての、或いはエコールとしての、一つの固定した主義主張をもつことを、否定する立場にあったからに他ならない。「日本未来派」はいわばそういう集団の画一性を否定することが、唯一の主張である。
(中略)
「日本未来派」の未来は、各自が選びとる可能性のなかにある。今後どのように展開するかは、誰にも予測されない。われわれは、われわれ各自のファイトにより、「日本未来派」をも大きく前進させるのである。
それから24年後の昭和51年に出版された「日本未来派」150号にも、佐川英三「未来派の未来」冒頭に同じ事が書かれています
「日本未来派」はやかましい成約のない、自由な雑誌である。同人の個性を尊重して勝手なことを書かせるというのが創刊者池田克己以来の伝統で、それは現在も変わらず、将来も変わることがないだろう。だからこそ三十年も続いてきたのだと思う。
池田克己が詩の震源地に立ち続け、「日本未来派」に心血を注いだのは、その自由のためであり、自分自身の作品を含めて、その自由の中から生まれる芸術のためでした。池田克己の死後も、その精神は「日本未来派」同人はじめ、彼が関わった詩人たちに引き継がれ、彼の名前が忘れられたとしても、日本詩壇の大きな潮流のひとつの柱となっているだろうと私は考えています。